2020年7月21日、火曜日。
その夏は、世界中が息をひそめていた。
緊急事態宣言が明け、しかしまだ世の中がおかしな空気を纏っていたあの夏。私は衝動的に高尾山へ向かうことにした。何もない日、何をするわけでもない日。ただ、外に出て、山を登りたかった。
高尾山は、東京から電車1本で行ける。京王線で新宿から特急に乗れば約50分。都市生活者にとって、これほど手軽に「山の空気」を吸える場所は他にない。
ケーブルカー駅から登山スタート
高尾山口駅を降り、登山口へ向かう。ケーブルカー・エコーリフト乗り場の建物には、大きなバナーが掲げられていた。

「祝 日本遺産認定 八王子市が都内で初めて認定されました」
高尾山がある高尾・陣馬エリアは、前年(2019年)に「霊気満山 高尾山 〜人々の祈りが紡ぐ桑都物語〜」として日本遺産に認定された。この日もその認定を祝う横断幕が風に揺れていた。
ケーブルカーを使わず、1号路(表参道コース)を徒歩で登ることにした。舗装されているが、序盤から急勾配が続く。真夏の7月、湿気は高く、数分歩くだけで汗が滲む。
山道の注意書きと古木
1号路を進むと、いたるところに大きな杉や檜の古木が立っている。中には幹の内側が空洞になりながらも生き続けているものや、倒木リスクがあるとして注意書きが立てられたものもある。

「頭上注意 枯損木あり」という赤文字の看板。苔むした巨木の根と幹の間に挟まれるように立てられている。高尾山は年間を通じて登山客が多いため、こういった安全管理が徹底されている印象を受けた。
さらに登っていくと、根が露出した場所が現れた。大木の根が複雑に絡み合い、その隙間が空洞になっている。山道のいたるところにこういった自然の造形がある。

天候:霧と曇天
この日の天気は、終始曇りだった。山頂付近に近づくほど霧が濃くなっていく。視界は数十メートル程度しかなく、遠くの山並みはまったく見えない。

石積みの展望台から見下ろすと、木々のシルエットが霧の中に浮かびあがっている。都心の景色はゼロ。それはそれで幻想的だった。
薬王院:日本遺産の霊場
高尾山のハイライトのひとつが、中腹にある高尾山薬王院だ。真言宗智山派の大本山で、開創は744年と伝えられる。年間300万人もの参拝者が訪れるという日本屈指の霊場でもある。
この日の薬王院は、霧と湿気に包まれていた。門をくぐると、境内は独特の静けさと荘厳さを持っていた。

「祝 日本遺産認定 霊気満山 高尾山 〜人々の祈りが紡ぐ桑都物語〜」
薬王院の建物は、大きく分けて本堂(飯縄権現堂)と大本堂からなる。木造建築と色彩豊かな装飾が組み合わさり、独特の美しさがある。

参拝者が賽銭箱の前に並んでいた。コロナ禍の2020年、この程度の人出というのは以前より少ないのだろう。しかしそれでも、人々は山に祈りに来る。
薬王院のみどころ:黄金の仏像と顔叶輪潜
薬王院の境内には、いくつか独特の見どころがある。
薬師如来の水場
境内に入ってすぐ目を引く六角屋根のお堂。中央には黄金の薬師如来が立っており、水盤が据えられている。

顔叶輪潜(かおかなわくぐり)
境内には、円形の石の輪が据えられた構造物がある。「顔叶輪潜 厄除開運」と刻まれており、この輪をくぐり抜けることで、願いが叶い厄が除かれるとされている。

輪の向こうに参道の石畳が続いている。通り抜けてみると、不思議な感覚があった。
天狗像と奉納碑
境内のあちこちには、石碑や仏像、奉納の構造物が立ち並ぶ。飯縄大権現(いいづなだいごんげん)の化身とされる天狗は高尾山のシンボルだ。羽を広げた天狗の像が、霧の中に威圧感をもって立っていた。

仁王門
境内の奥には「厄除開運」と大書された赤い仁王門が立っている。急な石段の上にそびえる朱塗りの門は、霧がかかるとより神秘的に見えた。

吊り橋(つり橋)
薬王院近くには、森の中に架かる吊り橋がある。緑豊かな樹々に囲まれた木製の吊り橋は、遊歩道の一部として整備されていた。

山頂:599.15m、霧の中の頂点
薬王院を抜け、さらに登ると山頂に着く。標識が現れた瞬間、達成感がある。

「明治の森高尾国定公園 高尾山頂 599.15m」
この日は霧が深く、山頂からの展望はゼロだった。通常であれば、晴れた日には富士山が見えるという。しかしこの日の山頂は、霧に包まれた静かな空間だった。

売店と自動販売機がある山頂広場。霧の中に数人の登山者がいた。晴れていれば多くの人で賑わうのだろうが、この日は静かだった。それはそれで、落ち着いた雰囲気があった。
山頂で一息ついてから、地図を確認した。

コースは1号路から6号路まで複数ある。この日は蛇滝コースが「7/21 11:00〜 通行止め」になっていた(地図にも手書きで書き込まれていた)。天候不良か整備のためだろう。
下山後のご褒美:とろろそばと生ビール
登山の後は、高尾山口付近の食事処へ。高尾山は「高尾そば」でも有名で、麓にはいくつかの蕎麦屋がある。
注文したのはとろろそば。山芋のとろろが乗った蕎麦に、生卵が添えられている。

さらにきのこの小鉢も頼んだ。煮た舞茸や椎茸の上に白い千切り野菜が乗っている。山の食材そのものを使ったシンプルな一品だ。

そして生ビール。アサヒスーパードライの生。

汗をかいた後の一杯。これのために登ったと言っても過言ではない。この旨さは、山に登った人間にしかわからない。
2020年の夏、高尾山で思ったこと
この年の特殊な状況の中で登った高尾山は、いつもと少し違って見えた。混雑が少なく、霧が深く、静かだった。
薬王院で「顔叶輪潜」をくぐり、天狗の像の前に立ち、山頂で霧の中に佇んでいると、自分がとても小さな存在に感じられた。標高599mという、けっして高くはない山が、確かに日常から切り離してくれた。
高尾山は、何度でも来たくなる山だ。季節が変わればまた違う表情を見せる。次は紅葉の季節か、あるいは冬の快晴の日に、富士山を眺めに来ようと思った。